神の秩序を 乱す危険性

2016年9月3日 icon_002200_16.pngTag: 蒲島 敬

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*霊感の言葉*

人類のあけぼの上451-452
神は、イスラエルの人々を、純潔で清く幸福な国民として、カナンに確立させるためにエジプトから連れ出されたのである。この目的を達成するために、神は彼らに訓練の過程をお与えになった。それは彼ら自身のためであるとともに、彼らの子孫のためであった。彼らが神の賢明な制限に従って、快く食欲を制したのであれば、彼らのうちには、衰弱と病気はなかったことであろう。彼らの子孫は、身体的にも、精神的にも活気にあふれていたことであろう。彼らは、真理と義務に関する明らかな知覚、鋭い識別力、健全な判断力を持っていたことであろう。しかし、神の制限と要求に快く従わなかったことが大きな理由となって、彼らは神が望まれた高い標準に到達できず、神が与えようとしておられた祝福を受けることができなかった。「おのが欲のために食物を求めて、その心のうちに神を試みた。また彼らは神に逆らって言った、『神は荒野に宴を設けることができるだろうか。見よ、神が岩を打たれると、水はほとばしりいで、流れがあふれた。神はまたパンを与えることができるだろうか。民のために肉を備えることができるだろうか』と。それゆえ、主は聞いて憤られた」と詩篇記者は言った(詩篇78:18-21)。紅海からシナイへ行く旅の途中には、つぶやきと騒ぎがたびたび起こった。しかし、神は、彼らの無知と盲目をあわれまれて、彼らの罪をすぐに罰することをなさらなかった。しかしそのことがあった後で、神は、ホレブでご自分を彼らにあらわされた。彼らは大きな光を受けていた。彼らは、神の威光と力とあわれみの証人となったからであった。そのため、彼らの不信と不満は大きな罪となるのであった。そればかりでなく、彼らは、主を王として受け入れ、その権力に従うことを誓っていた。彼らのつぶやきは、今となっては反逆であった。イスラエルを無政府と滅亡とから守ろうとするなら、これは、反逆として直ちに厳罰が与えられなければならなかった。「主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた」(民数記 11:1)。つぶやいた者のなかの最も罪深い人々は、雲の中からのいなびかりによって死んだ。

Letter 1, 1897年
反逆からの教訓―本物の反逆が癒され得るものなのか、私には疑わしい。「人類のあけぼの」からコラ、ダタン、アビラムの反逆を研究しなさい。この反逆は二人と多くの人を巻き込んだだけでなく広がった。それは二百五十人のよく知られたつかさたち、名のある人々によってリードされた。反逆は反逆と、背信は背信と正しくはっきり呼びなさい。そして、すべてのあるべきではない記事が古代の民の経験として歴史に忠実に記されていることを考えなさい。これらのことは世の終りに臨んでいる我々に対する訓戒のために書かれたと聖書は言明している。真理の知識を持っている人々が彼らの偉大な指導者であられる主から離れて大背教者を受け入れ、彼をキリスト我らの義と呼ぶなら、それは彼らが真理の鉱山を深く掘っていないからである。彼らは貴重な鉱石を不純な材料から区別することができないのである…。主はこの問題が発展するのを許された。それは、ベレヤの人々のようにこれらのことは果たしてそうなのかと自分自身で聖書を探る代わりに、人々の言葉に頼るとき、いかに容易に誤りに導かれるかということを示すためである。反逆と背信が我々の間に広まっている。無力な我々は信仰によってキリストによりすがらなければ、それによって影響されるであろう。もし人々がそれほど容易に誤りに導かれるなら、サタンがキリストを装って奇跡を働かせるとき、どのように立つことができるであろうか? 誰が彼の偽りに心を動かされないで立つであろうか? キリストであると自称しているだけで、それはただキリストの働きをしているかのように見えるのであって、キリストを偽装しているにすぎない。何が偽キリストへの忠誠から神の民を守るであろうか? 彼らの後に従ってはならない。教理は明らかに理解されなくてはならない。真理を教えることを認められた者はしっかりと錨で固定されなくて はならない。そうするときに、彼らの船は嵐と暴風雨に対して持ちこたえるであろう。錨が彼らを固く保つからである。欺瞞は増加するであろう。そして我々は反逆をその正しい名前で呼ばなければならない。我々は完全武装して立たなければならない。兄弟方、あなたは人間と対決しているだけでなく、もろもろの霊力と権力と戦っているのである。肉と血に対して我々は戦っているのではない(エペ6:10-18を慎重に読んで頂きたい)。

【説教内容】

私たちは秩序正しい生き方をしているでしょうか?「え?秩序??」と言われても、何を根拠にそれを考えて良いかわかりにくいところです。
しかしモーセの時代に記録されている神さまは、実に驚くべき正確さと秩序正しさをもって、イスラエルの民を導いておられました。今朝は、神さまが人間に求めておられ秩序について学んでいきたいと思います。

<過越節の意味>

①まず神さまの秩序について学ぶ前に、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民の初子が、過越節の時に救われた背景について考えてみましょう。それはヨセフの時代にさかのぼります。ヨセフの活躍により、エジプトのゴセンの地に招き入れられたヤコブと兄弟たちは、安息日を守り燔祭を行う神の特別な民としてエジプトに下りました。神さまは偶像礼拝の地において、彼らが正しい模範となり良い影響力を与えるべきご計画をお持ちでした。

②彼らは、エジプトで有能かつ強大な民となり、新しいパロは彼らの影響力を恐れてエジプト人の奴隷としてしまいました。そのため安息日も奴隷として働かされたり、燔祭の動物はエジプトでは異教の神の使いとして大切にされていたので屠ることも許されず、どんどん神さまの恵みから離れていき、結果的にほとんど神さまのことを忘れてしまったのでした。

③そのような状況でも、神さまはイスラエルの民をお捨てになられませんでした。なぜなら、アブラハムと交わした契約があったからでした。

「わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。」創世記15:14

④神さまは約束を必ず守られるお方です。ここに神さまの完全な秩序の源があります。神さまは全能のみ腕をもってその約束を果たされます。そのためパロの元にモーセを遣わして、奴隷状態のイスラエルの民を解放するように要求します。

「主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう」 出エジプト記4:22〜23

⑤ここで「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」と神さまが言われていることに注目したいと思います。この当時、長子つまり初子には「長子の特権」が与えられました。通常この特権には、燔祭において祭司として家族のために執り成すことや、神さまのために人生をお捧げすることが要求されましたが、神さまの律法の保管者として特別な祝福にあずかることも含まれていました。

⑥さて、パロはもちろんイスラエルを解放しませんでしたので、10の災いを経験することになります。ここで最後の災いである「過越節」に至るまでに経験する災いは、いわば神さまのみ業のデモンストレーションのようなもので、多くのエジプト人が神さまの刑罰を恐れ、寄り集まって出エジプトの時にイスラエルについて来るに至る者たちもいました。

⑦この「過越節」は、羊を殺してその血を鴨居に塗ることによって、滅びの天使の刑罰から免れることが出来るというものでしたが、鴨居に血を塗ることは象徴的に、神さまの初子であられるキリストの十字架の犠牲を信じることを表していました。しかしここで重要なのは、生き残ったイスラエルの初子は、神さまの初子キリストの命と交換を条件に救われるのでしたが、それはイスラエルの初子が「神さまの初子となる」ことをも意味していました。

「人間と家畜のういごは共に主のものとなり、あがないによってのみ、自分たちのものとなったが、それはエジプトのういごが殺されたとき、イスラエルのういごが恵みによって救われたとはいえ、もし、贖いの犠牲がなかったならば、同じ運命にさらされていたことを認めるものであった。」人類のあけぼの上巻317

「ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなるであろう。わたしは主である。」民数記3:13

<神さまが初子イスラエルのためになされたこと>

①無事にエジプトから解放されたイスラエルは、神さまの長子となるべく、特別な神さまのみ業により導かれていきました。砂漠の過酷な状況の中、彼らは天来の優しいみ腕によって保護されました。それは彼らをご自分の長子ととして受け入れられた神さまの愛の表れでした。昼は雲が彼らの頭上に蓋のように広がり、夜は火の柱となって彼らの宿営を照らすのでした。イスラエルの民は、このような超自然的な神のご臨在を日々経験しながら砂漠を進み行きました。

②その次に現れた神さまのみ業は、追いかけてきたパロの軍勢と神さまご自身が戦われるということでした。これはヌウェイバという砂浜での出来事です。現在ここはリゾート地となっていますが、ここの地形は山と山の間の狭い道を進むといきなり、だだっ広い砂浜が現れてくるのです。しかも目の前はアカバ湾ですのでもうこれ以上はどこへも進めません。ここでパロの軍勢が追いついたのです。絶体絶命の時、モーセは神さまから与えられる救いの確信を持って次のように言いました。

「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。出エジプト14:13〜14

③全能のみ腕が海を真っ二つに分けました。そしてまずイスラエルの民がそこを渡って進みました。それを見ていたパロの軍勢も同じく海を渡ろうとしましたが、ここで火の柱の中から神さまは、彼らを見下ろして彼らが誰と戦っていたかを知らせます。彼らは創造主なる神さまと戦っていたことにやっと気づいて恐れ逃げ惑うのですが、モーセが神さまの命令により杖を差し伸べると海は戻ってパロの軍勢をことごとく飲み尽くしました。

④この勝利にあずかったイスラエルの民に、神さまはさらに祝福をお与えになられます。メラという場所にたどり着いた時、そこの水は苦くて飲めなかったのですが、神さまは一本の木をモーセに示され、それをモーセが水に投げ入れると、水が甘く美味しくなったのです。

⑤この時、神さまはイスラエルの民にある約束をお与えになります。それは、神さまの長子として彼らが正しく歩むならば、この祝福はさらに続くという約束です。

「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。出エジプト15:26

⑥彼らがこの約束を信じて進むならば、神さまはご自分の秩序に従ってこの約束を実行されるのでした。ここから神さまは彼らを徐々に試みて教育されます。なぜなら彼らは神さまの長子として相応しい立場を占めるために訓練されなければならなかったからです。

「神は彼らを向上させて、高潔にし、彼らを地上 の賞賛に値する国とするために、不思議な方法をもってエジプトの奴隷の境遇から救い出された。しかし、彼らは困難に出会い、欠乏に耐えることが必要であった。神は彼らを堕落の状態から引き出し、彼らが諸国民の中で 尊敬される立場を占め、重要で神聖な責任を負わされるのにふさわしいものにしようとしておられた。」人類のあけぼの上巻336

⑦この試みの時にイスラエルに与えられたのがマナでした。このマナは、彼らの健康を支え、また心の状態も健全に保つために神さまが天から超自然的にお与えになったものでした。なぜなら、彼らは長いエジプトでの奴隷生活の中で食生活が乱れていたので、その食生活をリセットする必要があったのです。しかもこの時、安息日の重要性も彼らに示されました。毎日その1日に必要な分だけ与えられたマナは、毎週金曜日にはいつもの二倍与えられることによって安息日にはそれを集めなくても良いのでした。神さまはこの教えから、安息日がいかに聖なるもので重要であるかをも教えられたのでした。

⑧このように神さまはエスラエルに与えられる試みの中で、彼らにご自分の長子としての愛をお示しになれらました。それは彼らとの神さまとの関係がより強固になり、彼らが神さまのご計画を忠実に実行するために必要な信頼関係を築く必要があったからでした。

⑨そしてシナイ山のふもとの「メリパ」また「マッサ」と呼ばれる場所に来た時に、彼らは神さまに不満の精神で水を求めましたが、数々の奇跡を目の当たりにしてきたイスラエルにとってこれは、神さまに対する不信となり、そのためにアマレク人に襲われることになりました。しかしモーセが手を上げて祈る時にだけ勝利するという超自然的な方法で、神さまはイスラエルに勝利をお与えになりました。これは彼らの勝利はただ「神さまによりたのむ」ことにより与えられるということを教えられたかったからでした。

⑩そしてこの後にシナイ山で神さまの長子としての特権をいただくための重大な契約がなされます。そしてイスラエルの民はその条件として、神さまの律法である「定とおきて」「モーセの十戒」を守ること誓って、神さまとの契約関係に入りました。

そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。出エジプト24:7〜8

⑪ここまで学んでみて、神さまはまず最初にイスラエルを奴隷から解放し、数々の超自然的なみ業を通して、彼らにご自分に頼る信仰を持つように導かれました。その信頼関係から長子の特権を与えられるにふさわしい者として歩めるように契約を結ばれたのです。これが神さまの側から提供された全き秩序でした。イスラエルはこの全き秩序に従う限り、イスラエルが祭司の国として聖別され、異教徒の国々を神さまに導くための特別な祝福が約束されたのです。

<神さまとの契約を破棄するイスラエルの民>

①しかしこの素晴らしい神さまとの契約は一方的にイスラエルの方から破棄されました。彼らはこの数日後、金の仔牛の偶像を拝んだのです。契約は、両方がそれを守り行うときに効力があります。しかしどちらか一方がそれを守らなければ破棄されることになります。

②この時、金の仔牛を拝まなかった者たちがいました。それがレビの子孫です。彼らはこのことにより、契約破棄されたイスラエルの民の長子の特権をその代わりに与えられることになり、聖所のすべての奉仕に携わることが出来るようになりました。しかしこの契約者変更のために、レビ人はまずつらい行動を取らねばなりませんでした。金の仔牛を拝んで悔い改めない者たちを剣で殺さなければならなかったのです。これは神さまの完全な秩序を守るためには必要なことでした。そしてこれにより、聖所の儀式を通して罪人が悔い改めることが出来るという、贖いの道が開かれるのでした。

「このつらい行為を行なったものは、それに従事したことによ り、反逆と偶像礼拝に対する憎しみをあらわし、真の神の奉仕にさらに自分たちを献身することを示した。主はレビの部族が忠実であったことを賞賛し、特別の栄誉をお与えになった。」人類のあけぼの上巻380

<契約者変更を秩序正しく行われる神さま>

①つまりこの反逆の結果、すべてのイスラエルの長子は、初子としての神さまの所有では無くなり、代わりにレビ人が神さまの初子となり所有となります。このことは民数記に正確に記されています。

「あなたはイスラエルの人々のうちの、すべてのういごの代りに、レビびとを取り、また彼らの家畜の代りに、レビびとの家畜を取りなさい。レビびとはわたしのものとなる。わたしは主である。」民数記3:45

そして、その神さまの長子としてのレビ人の契約者変更も神さまの完全なる秩序によって正確に完全に執り行われたのでした。

「またイスラエルの人々のういごは、レビびとの数を二百七十三人超過しているから、そのあがないのために、そのあたまかずによって、ひとりごとに銀五シケルを取らなければならない。すなわち、聖所のシケルにしたがって、それを取らなければならない。一シケルは二十ゲラである。あなたは、その超過した者をあがなう金を、アロンと、その子たちに渡さなければならない」。民数記3:46〜48

②つまりイスラエルのすべての初子の人数は22273人でしたが、すべてのレビ人の数は22200人でした。22273人−22200人=273人。ここで273人イスラエルの初子が超過しているということになりました。そこで神さまは超過の273人を聖所のシケルに従って1人あたり5シケルを支払って贖うように命じられました。このように超過人数においても完全な方法で対処されましたが、ここからもまた、神さまはご自分の秩序を完全に保たれるお方であることがわかります。

③また、聖所の周りには各部族が宿営しましたが、そこにも完全な秩序がありました。それぞれの部族の旗のもとに分かれて、宿営する場所が決まっていたのです。この旗には各部族のシンボルが描いてありました。このシンボルは、ヤコブが臨終の床において息子たち12部族を祝福してそれぞれの将来について預言した時の言葉に基づいています。そして聖所を中心にその周りにはレビ人たちの宿営がレビの長男ゲルション、次男コハテ、三男メラリの部族ごとに配置され、聖所の入り口にはアロンの家系、すなわち祭司職の者たちが配置されました。

④さらに進軍の時、神さまの御心によって進むか留まるかに従い、その配列まで決められていました。先頭にはモーセとアロンの祭司一族が契約の箱を携えて行進し、その後には東に宿営した「ユダ、イッサカル、ゼブルン」次に幕屋の運搬のレビ人「ゲルション、メラリ」、次に南の「ルベン、シメオン、ガド」、そして聖所の祭具である(いと聖なるもの)の運搬のレビ人「コハテ」、次に西の「エフライム、マナセ、ベニヤミン」、最後は北の「ダン、アセル、ナフタリ」です。このように進軍は宿営の東側、南側、西側、北側の部族ごとに行進することになります。しかも、大祭司の胸当てはめ込まれた「12個の宝石」もこの配列なのです。ここにも神さまの完全なる秩序がみられます。

⑤この神さまの完全なる秩序にイスラエルが従っていれば、約60万人のイスラエル部族には完全なる調和、平和、神の祝福の力の現れが約束されていました。世界中のどの部隊にもここまでの完全なる秩序を見ることはありません。

<秩序が乱れ始める>

①さて、ここまで神さまの秩序は完全に保たれていましたが、果たしてこれが乱れることがあるのでしょうか?残念ながらイスラエルの民は、服従することが出来ませんでした。その反逆の始まりを聖書から見てみたいと思います。

「また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、『ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない。』民数記11:4〜6

ここで、「寄り集まり人」とありますが、これはエジプトから神さまの奇跡を目の当たりにしてついて来た人々です。いつも彼らが最初に「欲心」を起してつぶやいたのです。それはイスラエルの民にまで伝染していきました。この「欲心」とはなんだったのでしょうか?それは「食欲」です。彼らは日ごとに与えられるマナを食べていましたが、それに飽きたので他のもの、特にエジプトで好きなだけ食べていた肉が食べたいと泣きわめいたのでした。

「神は、マナと同様に肉もたやすくお備えになることができたのであるが、それが与えられなかったことは、彼らのためを考えた上でのことであった。・・・ゆがめられた食欲を、もっと健康な状態にもどさなければならなかっ た。それは、神がエデンの園で、アダムとエバにお与えになった地の果実など、人間に最初に与えられた食物を楽しむことができるようになるためであった。イスラエルの人々に動物の肉がほとんど与えられなかったのは、 こうした理由からであった。・・・飲食の不節制は、人々を低い欲望にふけらせるもととなり、ひいては、人々にすべての道徳的義務を無視させる原因になる。彼らが誘惑に襲われるならば、なんの抵抗力ももたないのである。」人類のあけぼの450〜451

②さらにこの不信と不満はモーセにも伝染します。彼は今までは神さまに対して弱音を吐いて投げやりなことは口にしませんでしたが、徐々に神さまに対して文句を言い出します。

「そして、モーセは主に言った、『あなたはなぜ、しもべに悪い仕打ちをされるのですか。どうしてわたしはあなたの前に恵みを得ないで、このすべての民の重荷を負わされるのですか。・・・わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください。』民数記11:11〜15

なんということでしょう。あの柔和で信仰深かったモーセが、とても投げやりな態度で神さまに文句を言っています。「寄り集まり人」の「食欲」から出た不信仰と不満の精神が、今やモーセにまで伝染しています。

③神さまは、イスラエルの民の協力無しには完全な秩序を保つことがおできになりませんでした。さらに恐ろしいことに、今度はミリアムとアロンにまで、この不信仰と不満の精神が広がります。彼らは今度は、モーセの立場を妬んで公然と反逆してしまいます。

彼らは言った、「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」。主はこれを聞かれた。民数記12:2

④イスラエルの反逆はとどまるところを知りません。このような無秩序の状態の中でイスラエルは神さまに願って12人の斥候をカナンの地に送り、ヨシュアとカレブ以外は不信仰な判断を広め、今までに至るまでたえず神さまから支え導いていただいた恩を完全に忘れてしまったのです。その不信仰によってこの世代の人々は、ヨシュアとカレブ以外はことごとくカナンの地に入れなくなりました。

⑤今や神さまの秩序は完全に乱されました。この後にはレビ人の中のコラを首謀者として謀反が起こりました。これによって失われた者は、コラの家族、ルベン族のタダン、アビラムと名のある250人の司、そして反逆の精神を持ち続けたイスラエルの民のうち14700人でした。神さまはこの無秩序状態の警告のためにその都度、必要な罰をお与えになって教訓とされましたが、それでもなお反逆の精神は止むことがありませんでした。イスラエルの民は、まるで10の災いを全て舐め尽くしたパロのようにかたくなな心の状態になってしまったのでした。

<この教訓から学ぶ事>

①ここで、秩序が乱れた原因について考えてみましょう。それは寄り集まり人の食欲から出た不信仰と不満の精神がきっかけとなりましたが、そこには根深いものがあります。つまり「神さまよりも自分の思いを優先させる利己的な精神」がイスラエルの民全体にあったのです。この神さまよりも自分という利己的な精神は「食欲」に限らず、私たちの生活の中にも沢山あります。テレビやゲーム、映画や音楽といった「娯楽」や、仕事やお金、地位や名誉、財産といった「地上の宝」、また自己啓発や美容、ファッションなどの「自己を高める思い」、これらはまだわかりやすい利己的な精神ですが、問題なのは、これらから一見離れて安心している私たちの中にも、実は同じ精神が潜んでいることがあるのです。

②実はこれが「寄り集まり人のつぶやき」を聞く前のイスラエルの民です。自分は大丈夫だと安心していても、そのきっかけになり得るものが心の奥底にあれば、突発的にそれに同調してイスラエルの民のような反逆に陥る危険性があるのです。しかもサタンはこれらのものがさほど問題でないように思わせます。このように心の奥底にある利己心を深く探って注意していなければ、自分もイスラエルのようにつぶやきに同調する性質があることを全く知らないで生活することになります。

③私たちがクリスチャンとして世俗から離れて生活するはもちろん大切です。しかしそのことで安心し、現状で心に何の責めも葛藤もなく平和で穏便に過ごしているとき、それが神さまの完全な秩序に従っている状態であると果たして言えるでしょうか?残念ながらそれは危険です。もし神さまの完全な秩序の中に進むならば、私たちの心には必ず自分の利己心との戦いが起こります。なぜならば、これらの罪人の心に隠されているものは、聖霊によって指摘され暴露されるからです。イスラエルの反逆の歴史を学ぶ時、私たちはこれを自分に当てはめて考えなければならないのです。

これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。コリント第一10:11〜12

③私は先週の月曜日ある夢を見ました。それは、非常に私の高慢心を引きずり下ろしました。

夢の内容は、今帰仁教会と仮庵の教会の兄弟姉妹方からある理由で私が完全に拒絶されるという夢です。その理由とは私が「悪霊に取り憑かれている。」というものでした。

え?悪霊に??その理由を聞いてみると「あなたはあまりにも世俗的な物に心を奪われているから。」だというのです。

夢から目覚めた時、私はそんな馬鹿なこと?と笑いました。なぜなら病気で全てを失って沖縄に来たとき、世俗的なものも一緒に捨て去ったと思っていたからです。それに、少しくらい世的なものに心を向けたくらいで、何も「悪霊に取り憑かれている」まで言われなくても。。ちょっと大げさじゃない?。。。と思ったのです。

しかしこの後、私は本当の自分の姿を知ることになりました。今の私は、ただ、「そのような誘惑になる世俗的なものを周りに置かないこと」で、かろうじて「罪を犯す機会を減らしている」だけでした。実際、誘惑にさらされれば、そして寄り集まり人のつぶやきが聞こえたならば、それに同調するような未だ捨てきれていない世的な罪に属する心が見つかりました。夢の通り、私はいまだに神さまの完全な秩序に対して従えない反逆の精神を持っていて、それこそサタンと悪霊の秩序の影響下にあったことに気がつきました。

④イスラエルの民も一見、これらの世俗的な誘惑から遠ざかっていました。なぜならば、彼らは荒野にいたからです。しかし、このことによって彼らは「かろうじて神さまの完全な秩序に従えていた」だけでした。彼らは自分の罪の本質、つまり「つぶやきに同調する弱さ」に気がついていませんでした。私たちは神さまから与えられた完全な秩序をどのようにしたら守れるのでしょうか??

⑤世俗の秩序と、神さまの秩序があることをまず私たちは知らなければなりません。聖書の真理から心が離れている時、それは世俗の秩序に従っているのです。聖書の真理はこの世俗の秩序に必ず戦いをもたらすことを覚えていなければなりません。そして私たちがこの影響力の前に無力であることも認めなければなりません。選択は私たちにあります。主を喜ばせるか、自分を喜ばせるかがその大きな分かれ道となります。信仰によってキリストにすがらなければ、容易に自分を喜ばせる道を歩んでしまうことに注意しながら日々生活しなければならないのです。キリストこそ私たちの盾、そして私たちの品性をしっかりと固定してくださることができる唯一の錨であられるお方です。

「教理は明らかに理解されなくてはならない。真理を教えることを認められた者はしっかりと錨で固定されなくてはならない。そうするときに、彼らの船は嵐と暴風雨に対して持ちこたえるであろう。錨が彼らを固く保つからである。欺瞞は増加するであろう。そして我々は反逆をその正しい名前で呼ばなければならない。我々は完全武装して立たなければならない。兄弟方、あなたは人間と対決しているだけでなく、もろもろの霊力と権力と戦っているのである。肉と血に対して我々は戦っているのではない。」Letter 1, 1897 年

心の中を深く探る必要があります。表面的に罪から離れることと罪に勝利することは違います。もちろん、自ら罪の誘惑に身を置くべきではありませんが、自分が罪に対して本当は無力であることを決して忘れてはならないのです。罪に勝利するにはキリストの助けが必要です。たとえ世俗から離れていも、根本が変えられらていなければ、いまだに反逆の精神が隠れているのです。そこに気がつく時、私たちは自分の無力さを知り、キリストに罪からの解放を嘆願します。「主よ、私の弱さをどうぞ哀れんでください」と祈るのです。その時こそ、神さまの完全な秩序が私たちのうちに形成されるのです。着せられる義と与えられる義。つまりこれが神さまの完全な秩序なのです!

『ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。』コリント第二12:9

⑥この聖句の続きには、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」と書いてある通りです。

神さまの完全な秩序を乱す危険性が自分の中にあることを発見したとき、そして至聖所におられる仲保者キリストのゆえ、むしろ喜んで自分の弱さを誇るときに、「神さまの完全な秩序がわたしのうちにあらわれる」というこの約束を信じたいと思います。そして激しい人生の戦いの中に、信仰と希望をもって立ち続けたいと思います。


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