十字架の効力

2019年6月29日 icon_002200_16.pngTag: 金城 重博


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*霊感の言葉*

■スタディーバイブル ヨハネ3:14-17の注解

(ヨハ1 : 29、ガラ6 : 14、へブ2 : 14)
十字架の効力 ― 十字架上におけるキリストの死は、死の支配力を持つ罪の創始者の破滅を確かなものとした。サタンが滅ぼされると、悪に誘われる者はいなくなり、贖いは二度と繰り返される必要がない。そして神の宇宙において再び反逆が起きる危険性もなくなるのである。この暗黒の世において効果的に罪を抑制する唯一のものが、天国において罪を防止するのである。キリストの死の重要な意味が聖徒たちとみ使いたちとに明らかにされる。堕落した人間は世の初めからほふられた小羊なくしては神のパラダイスに住まいを持つことができなかった。そうであるなら、我々はキリストの十字架を勝ち誇るべきではないだろうか。天使たちはキリストに栄光と誉れとを帰す。

それは、彼らでさえも神のみ子の苦悩を仰ぐことによってのみ安(・)全(・)だからである。天のみ使いたちが背教から守られているのは、十字架の効力によるのである。彼らも十字架による以外は、サタンが堕落する以前の天使たちと同様に、悪に対して安(・)全(・)ではないのである。天使の完(・)全(・)は天において全うされなかった。人間の完全は至福の楽園エデンにおいて失敗に終わった。天国でも、地上においても安(・)全(・)であることを望む者は皆、神の小羊を仰ぎ見なければならない。

神の義と愛とを明白にする救いの計画は、小羊の血によって贖われる者たちと同様に、堕落していない他世界に、永遠の保証を与える。我々の唯一の望みは、キリストによって神のもとに来るすべての者をいつも救うことができる彼の血に完全に頼ることである。カルバリーの十字架上におけるキリストの死は、この世における我々の唯一の希望であり、来たる世において我々のテーマとなる。

ああ、我々は贖いの価値を理解していない! もし理解していれば、我々はもっとこの事について語るはずである。神が愛するそのひとり子を与えられたことは、計り知ることのできない愛の現れであった。それは、神の律法の尊厳を守り、なおかつ罪人を救うために神がおできになる最大のことであった。我々は贖いのテーマを研究せずにいてよいだろうか。それは、人の頭脳が取り組むことのできる最高の主題である。もし、人が十字架に現されているキリストの愛を瞑想するならば、彼らの信仰はキリストの血潮の功績を自分のものとするために強められ、彼らは清められ、罪から救われるのである(ST 1889年 12月30日)

■ガラテヤ6:14の注解:スタディーバイブル新416
(イザ45 : 21, 22、マタ16 : 24、ヨハ1 : 29)仰いで生きよ ― 十字架にかけられ、キリストは福音となられた。今我々は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」というメッセージを持っている。我々の教会員は、十字架にかけられ、天に上げられた救い主に、しっかりと目を留めていようとはしないのだろうか。そのキリストの内に、彼らの永遠の命の希望が集中しているのである。これが我々のメッセージ、我々の論拠、我々の教義、強情な者に対する警告、悲しんでいる者に対する励まし、すべての信者のための希望である。もし我々が人の思いの中に、彼らの目をキリストに留めさせるような興味を起こすことができたら、我々は脇に退いて、神の小羊に目を留め続けるようにということだけを、彼らに頼むのである。彼らはこのようにして教訓を受ける。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。その目がイエスをしっかりと見ている人は、すべてを捨てる。彼は自我に死ぬ。彼は、キリストにあって、非常な栄光に満ち、またすばらしく高められた神の言葉をすべて信じるであろう。

罪人が憐れみ深い救い主イエスをあるがままに見るとき、希望と保証がその魂を所有する。無力な魂は何のとまどいもなく自らをイエスに委ねる。十字架にかけられたキリスト・イエスを目のあたりにすれば、誰も疑いを持ち続けることはできない。不信は消え去る(MS 49, 1898年)


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