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第1課 神の存在について

はじめに

宗教といえば、何かを信じる思想、また教えのことであると言ってよいでしょう。

では、いったい何を信じるのか。いうまでもなく信仰の対象は神です。ただし、これには例外があります。その代表的なものは仏教です。仏教は本来無神論的思想なのです。

でも仏教は、仏を信仰の対象としているではないか、といわれる方があるかも知れません。日本人の多くはどうやら、神と仏を同じものと思っているようです。これは、どちらも人間を越える絶対者のことで、名前は違っても対象は同じものではないのか、というわけです。

しかしこれは大変な誤解といわねばなりません。仏とはすなわち悟りを開いた人のことをいいます。悟りを開いてもそれは神になったのではなく、人であることにかわりはないのです。このように、仏は神でない以上結局のところ、仏教は信仰というよりは人間の思惟思索の産物である哲学思想にほかならないということになるのです。

この仏教を除いて、ほかはほとんどみな、神を信仰の対象としています。しかし、一口に神といっても一様ではありません。ことに日本の神は、八百万の神また千万(ちよろず)の神という言葉もあるように、いろいろな神々があるわけです。

そこでこれから、神とは何なのか。神は本当に実在するのか。神が実在する証拠や根拠がはたしてあるのか。神の実在が確かであるとしても、なかには神ならぬ神、非実在の神、すなわち偽りの神もあるのではないのか。とすれば、どうやってそれを見分けるのか、そういったことについて、これからご一緒に考えてみたいと思います。

神ははたして実在するのか?

これについては、大きく分けて次の三つの考え方があります。

1、不可知論
まず一つは、われわれ人間には、神があるかないかを知ることは不可能だ、とする考え方があります。これは神の存在について、不問に付する考え方であり、答えを求めることも示すこともしませんので、これについて考えることは無意味でもあり、必要のないことです。

2、無神論
これは、神の存在を頭から否定する考え方です。神は目に見えない、ということがその理由とされているようです。この考え方の人は、目に見えるものだけを実在するものと考え、見えないものはなんであれ、その実在を認めようとはしないのです。
一見、たいへん現実的な考え方のようですが、しかしこれは、あまりにも短絡的ではないでしょうか。なぜなら、この地上には目に見えなくとも存在するものが少なくないからです。たとえば、空気、生命などはどうでしょう。ことに心、精神、人格などは目に見えませんが、だからといってその存在を否定したり、疑ったりする人がいるでしょうか。

とすれば、神も目に見えないという理由だけで、その存在を否定するのは、あまりにも単純で幼稚な考え方といわねばりません。
ある国の宇宙飛行士が、空から帰還した後に言ったというのです。

「わたしは、宇宙のどこにも神を見なかった」。
かつて、フランスのある科学者が、次のように言いました。

「わたしは望遠鏡で宇宙を探しまわったが、どこにも神を見つけることができなかった」。
これを何かの記事で読んだJ・W・ホーレーという人が、次のように反論しています。

「それは、ここにあるヴァイオリンを顕微鏡で詳細に調べたが、音楽はついに見つからなかった、というのと同様、不合理である」と。
聖書に次のように言われています。

「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべきことをなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)

3、有神論
これはいうまでもなく、神は存在するという主張です。しかし、神は目に見えないからないというのは、浅薄であるというのなら、目に見えない神を有るとするのは、それに劣らず浅慮で、もっと無鉄砲な話しではないか、といわれる方があるかもしれません。これは当然の反論と思います。いったい神の存在について、どのような根拠があるというのでしょう。

これについては、いろいろな論証法というものがあります。宇宙論的論証・目的論的論証・道徳的論証・宗教的論証・合理論的論証など多彩です。この一つ一つについての説明は、少々わずらわしくもありますので、ここでは省くことにしますが、この中の一つ、最後の合理論的論証についてだけ、簡単に説明させていただきましょう。

これは、たとえば錠を開けるのに、たくさんの鍵がここにあります。どれがそれであるかは、一つ一つ差し込んで回してみればよいわけです。戸が開かなければ、違う鍵だとわかりますし、開けばそれがこの錠の鍵であることがはっきりします。
そのように、神の存在を前提に、宇宙や人生を理解し説明する場合、理屈に合わなければ、それは認められないことになりますが、理屈に合っていて納得できれば、これを認めるというものです。

たとえば、船が難破して海に投げ出された人が、無人島に漂着したとします。ところが、砂浜に人の足跡があります。そうすると、人間がこの島に、今いるかどうかはわからないとしても、少し前までいたことがわかります。それから、もっと奥地に入ると、堀っ建て小屋があり、火を焚いた跡もある。中を覗いてみると、なんと赤ちゃんがスヤスヤと寝入っているではありませんか。こうなると姿は見えなくとも、大人の人がこの島にいることは、もはや疑うことができないでありましょう。

神の存在についても同様のことがいえるわけです。神秘にみちた森羅万象 、ことに人間の存在は、造り主なる神が存在する何よりの証拠です。聖書にこういう言葉があります。
「神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ローマ人への手紙1:19,20)

宇宙の最初の成り立ちや、地球がいま現にこのように存在しているという事実、人間の知恵や能力をはるかに越えた神秘や不思議などを考えると、神の存在を否定するよりは認めるほうが、よほど理にかなっており、合理的であるということがわかるはずです。

人が神を認めないのはなぜか?

聖書は、神の存在は明らかなことで、疑問の余地も弁解の余地もないと言っています。それにもかかわらず、神の存在を容易に認めようとしないばかりか、公然とこれを否定してはばからない無神論者もいます。これはなぜなのでしょうか。
こんな話があります。あるとき、数人の大学生が、クリスチャンである一人の学友を前にして、神を信じることは愚かなことだ、と、その信仰をあざ笑っていました。彼らは聞くに耐えない冒涜的言葉を平気で口にし、学友を辱めようとしていたのです。
しかし、このクリスチャンの学生は微笑しながら、ただ相手の議論を聞くだけで、最初は一言も反論しようとはしませんでした。

やがて彼らの攻撃が、一通りおわったとき、クリスチャンの学生はすっくと立ち上がり、いままで自分を嘲笑していた学友を真っ直ぐ見つめながら、静かに言ったというのです。
「君たちの言いたいことは、それだけらしいね。ではこんどは、僕のほうから君たちに質問しよう。君たちは、この世界に三種類の無神論者がいることを知っているかね。

1、世界中のあらゆるものを調べつくした後に、神はないと主張する人々。
2、何も調べないで、ただ先入観で、または誰かの説をそのまま鵜呑みにして、無神論を唱える連中。
3、神の存在を認めると自分に都合が悪いので、そのために神を認めようとしない人たち。

以上であるが、無神論者はこれ以外にはないはずだ。いったい君たちは、この三種類のうちのどの部類に属する無神論者なのかね?」。
これに対して、それまでクリスチャンをからかい、声高に信仰を批判攻撃していた学友たちは、急に口を閉ざし、黙りこくって一言も答えませんでした。そこで、クリスチャンの学生は、微笑しながら、静かにその場を立ち去ったというのです。
無神論者はよく、神を信じる者にたいして、「神があると言うなら、それを目の前に出して見せろ」とか、「証明できるのか」などと言います。しかし、もしそういうのなら、無神論者のほうも、神が存在しないことを証明して見せる責任があるはずです。
ところがどうでしょう。有神論のほうは、神の存在を論証することはそうむずかしいことではない。なぜなら、ほんの二、三の根拠を示せば足りることだからです。けれども、神が存在しないことを証明することは、はるかに困難なことです。なぜなら、そのためには、宇宙の森羅万象を、ことごとく調べつくす必要があるからです。とすると、無神論を証明することなど、土台むりな話で、殆ど不可能事といわねばならないでありましょう。
世人の多くは、神を信ずることを、無知で愚かなことだといいます。しかし聖書は逆に、「愚かな者は心のうちに神はないと言う」といっているのです。

では神はどんな存在か

これにも、いくつかの考え方があります。汎神論・多神論・一神論の三つです。

1、汎神論にっぃて
まず、汎神論ですが、これは宇宙の森羅万象それ自体が、神であるという考え方です。あるいは、存在するものすべてに、神が宿っており、目に見えるものはすなわち、目に見えない神のあらわれにほかならない、というものです。この場合神というのは、山や川の精、森の精、また生命、といったものを指すもののようです。しかし、これには知性・感情・意思などは認められません。いわば非人格的な存在にすぎないのです。その意味で、汎神論は無神論の別名にすぎないといってもよいわけです。とすると、これは人格的存在であるわれわれ人間の信仰崇拝の対象には、到底なりえないというべきでありましょう。
仏教は、「人間にはすべて仏性がある」と主張します。このように、仏教がたとい神に類するものを認めているようではあっても、それはやはりこの汎神論になるのです。

2、多神論について
前に述べた汎神論の神が、非人格的存在であるのに対して、多神論の神は人格的な存在です。それだけに、汎神論よりは頼りがいがあるようにみえます。なぜなら、人はこの神との対話が可能であり、守りと導きを期待できるわけだからです。
だが問題は、この神は一人ではなく多数であることです。神が多数であれば当然、頼りがいも稀薄にならざるをえません。なぜなら、どの神が救ってくれるのか、したがってどの神に頼ったらいいのか、わからなくなってしまうからです。
多神論の神は、たいてい民族神のようです。特定の民族だけが信じる神であり、その民族だけしか守り、また救うことをしない神ということになります。それのみか、この神は他の神と対立し、争うこともありえます。もちろん戦争にも関与し、鼓舞指導したりもします。
天照大神 もそうでした。これは日本人の神です。日本人以外の人には無関係であって、守りと救いの対象とはならないわけです。いわば普遍性に欠ける神ということになります。
だが、こういう神を信じる信仰が、はたして正しい本当の信仰と言えるでしょうか。

3、一神論について
これは、神は唯一人とする考え方です。神とは絶対者のことであり、他に対立する者があってはならない。もし対立する者があるなら、それは絶対者ではなく、神としての本質的資格を欠くことになります。絶対者には対立する者がないのですから、争いもなければ、戦争の要因となったり、それに関与したりということもありえません。なぜなら、この神は一民族の神ではなく、普遍的な存在、すなわち全世界、全人類の神であるからです。
とすると、われわれが神とすべきものは、これ以外になく、また存在する必要もないように思われるのです。が、これをあなたはどのようにお考えになりますか。
問題は、それならどの神が、その唯一の真の神なのか、ということでしょう。それを明らかにするためには、人びとのあいだにみられる種々雑多な神観念を、整理してみる必要があろうと思います。

種々の神観

これを大きく分けて、つぎの五つに分類することができようかと思います。

1、自然崇拝

これは、天然を神とする信仰です。たとえば、山や川、日月星晨、雷や自然の威力などです。

2、諸物崇拝

これは無機質の諸物を神として崇拝するものです。たとえば、自然石や隕石など、日本ではとくに、皇室に伝わる三種の神器なども、これに入ることになります。

3、樹木崇拝

木の中でも、樹齢が五百年、千年という古い大木を神聖視して、これを神として祀ることが、むかしからどこの国でも行われてきているようです。日本でも神木といって、しめ縄をめぐらした古木に、手を合わせて拝んでいる人の姿を、よく見かけることがあります。

4、動物崇拝

エジプトの牛、インドの象、チベットの鳥、中国の竜などがあげられますが、日本では狐や蛇が多く祀られています。

5、魂魄崇拝

死者の霊を神として、崇拝の対象とする信仰です。これは、日本に多く見られるもののように思いますが、とくに祖先を神としてまつり、これを拝むことは広く見られる風習です。なかでも、武勇にすぐれた人物を軍神として祭ることがよく行われています。日本では東郷元帥・乃木大将を祭った神社があり、明治神宮や靖国神社なども祭神は霊魂です。こうしたことを背景に、小泉八雲などは、日本を「死者支配の国」と呼んでいるほどです。

このほかに神はないのか

人間が神として崇めているものは数多くありますが、しかしそれを分類すれば、この五つのどれかに、みな納まってしまうはずです。
ではあなたは、この中のどれを神としておられますか。
ある方は、この中の二、三、ほかの方は全部かもしれませんね。しかし、神をただ一人とするなら、いったいどれを神とすべきでしょうか。

  1. こんにち人間は、その知識と能力によって自然を征服し支配しているといわれています。それならなおのこと、支配者が被支配者を神として崇拝する必要など、どこにあるでしょうか。
  2. 諸物崇拝はどうでしょう。これは無機物であって、ただの物体にすぎません。それなら命を持つものが、命を持たない死物を崇拝することに、いったいなんの意味があるというのでしょうか。
  3. これに比べて樹木崇拝のほうはどうでしょう。これには命があって成長もみられる、いわば有機的存在であるだけに、諸物に比べ次元のより高い存在といえます。しかし、樹木は生きているとはいえ、生えている場所からどこへも動き回ることはできません。
  4. では動物崇拝はどうでしょう。動物はその点、地面をどこでも自由に歩き回ることができます。そのうえ植物には意思も感情もありませんが、動物にはそれが備わっています。とすると、動物は樹木にくらべて、次元のさらに高い存在といわねばならないでしょう。
  5. さて、それではもう一つの魂魄崇拝はどうでしょうか。日本人の考え方には、死者は生者より尊く偉大であるという共通の観念があるようです。これは、祖先崇拝をはじめ、天皇家の皇祖神また靖国神社の祭神などに対して顕著にみられるところです。

しかし、心情や観念としてはともかく、実際問題として、死者と生者はどちらがより価値があり、次元が高いといえるでしょうか。死者は命がなく、知識も感情も意思もありません。思想もなければ、言葉もなく、まして行動もない以上、生きている人間にまさるとはとうていいえないのではないでしょうか。

そうすると、先にあげた五つのどれもが、生きている人間以上の存在とはいえず、むしろそれ以下の存在と見るほかはないように思うのですが、どうでしょうか。
では、このほかには神といえるものはないのでしょうか。もしほかにないのであれば、人間は宗教も信仰も必要がないということになろうと思います。なぜなら、人間は万物の霊長といわれますように、この地上における最高の存在ということになるのですから、自己以外に頼るものはないわけであり、また頼る必要もないと思います。それこそ、仏教が教えているように、「自灯明、法灯明」(自らを灯とし、法を灯とせよ)すなわち「ただ己と法を拠り所とし、他のいかなるものをも拠り所とすべきではない」という、この釈尊の遺訓を、指針とする以外にはない、ということになろうと思います。

しかし、もしどうしても何かに頼ることなくして生きることができないというのであれば、その神は、当然人間以上のものでなければならないはずです。

世界の創造主こそが真の神

では、そのようなものがあるのかないのか、これが究極の決め手になると思います。ところが聖書をみると、神にはもう一つのものがあることを告げているのです。

「彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである。アァメン」(ローマ人への手紙1:25)

聖書は人が神とするものを、大きく二つに分けています。創造主と被造物です。この世界と人間を造り、これに命を与えて生かしてくだっている方と、この神によって創造され、命を与えられて生かされているもの、とです。
そして、これまで多くの人びとは、被造物を神として崇め拝んできています。しかし、人間が神として崇め、礼拝すべきものは、被造物ではなく、創造者でなければならない。この方こそが真の神であって、人間はこの方を神とすべきであると、聖書はいうのです。
なぜなら、人間はこの神によって創造され、命を与えられて生かされているのだからです。とうぜん、この方は存在するものの中で、最高位の方であり、これ以上に次元の高いものは、ほかに存在しません。ですから、人間はこれ以上の偉大なる存在を、ほかにはどこにも見いだすことができないはずです。

ところが、人間はどうやら、この方を神とすることを快しとしない傾向があるようです。ジョン・スチュアート・ミルがこう言ったと伝えられています。
「だが、それなら、その神はだれが造ったのか?」と。

これは、クリスチャンがよく受ける質問でもあります。そして、不信者の中にはこれによって、クリスチャンをやり込めることができたとばかりに悦に入っている人もいます。
しかし、これは無知で愚かな質問というほかはありません。なぜなら、もし聖書の神を造ったものがほかにあるのなら、聖書の神はやはり被造物にすぎなくなり、もはや神ではなくなってしまうからです。神とは造られたものではなく造り主のことをいうのですから。
聖書の神は、いくつかのお名前をもっていますが、その一つに「われは有って有る者」という名があります。これは、独立独歩に似た「自立自存」といった意味です。すなわち、神は宇宙万物の造り主であって、だれかによって造られ、生かされているものではない。それどころか、みずからの意思と力で存在し生きている者、ということを意味しています。神とは造り主、また命の賦与者のことであって、被造物とははっきり区別されなければならない存在なのです。

創造主以外はすべて偶像

世界の創造主のみが神であり、それ以外はすべて造られ、生かされているものにすぎません。この被造物を神とする信仰を、聖書は偶像崇拝と呼んでいます。
偶像は、神の被造物にほかならないと同時に、人工の所産でもあります。そして、それはまた、目に見えない神を見える形に刻んだ、いわば人間の製作物なのです。
このような物を神として崇め、拝んでいることについて、聖書は次のように記しています。

「偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。…鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれを造り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。その半ばを火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、『ああ、暖まった、熱くなった』と。そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、『あなたはわが神だ、わたしを救え』と言う。

これらの人は知ることがなく、また悟ることがない。その目はふさがれて見ることができず、その心は鈍くなって悟ることができない。その心のうちに思うことをせず、また知識がなく、悟りがないために、『わたしはその半ばを火に燃やし、また炭火の上でパンを焼き、肉をあぶって食べ、その残りの木をもって憎むべきものを造るのかという者もない。彼は灰を食い、迷った心に惑わされて、おのれを救うことができず、また『わが右の手に偽りがあるではないか』と言わない」(イザヤ書44:9-20)

これをお読みになって、あなたはどうお感じになりましたか。人間がこれまで神としてきたものが、どんなものであったのかが、完膚なきまでに暴露され、これに礼拝を捧げていたことが、どんなに愚かしく無意味なことであったかが、反論の余地などまったくないほどに、理非曲直が明白にされていると言えないでしょうか。

これにあわせて、もう一人の預言者の言葉も引用させていただくことにしましょう。

「主はこう言われる、『異邦の人の道に習ってはならない。…異邦の民のならわしはむなしいからだ。彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、木工の手で、おのをもって造ったものだ。人々は金や銀をもって、それを飾り、釘と鎚をもって動かないようにそれをとめる。その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、ものを言うことができない。歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない。それを恐れるには及ばない。それは災いをくだすことができず、また幸をくだす力もないからだ』(エレミヤ書10:2-5)

預言者エレミヤは、「主はこう言われる」と告げています。これは神ご自身のお言葉なのです。なんと辛辣きわまる諌言であり、悲痛な忠告であることでしょうか。おそらく神は、家出をして淪落に身を持ち崩す息子を見るに見兼ねる父親のように、偶像礼拝に走る人間を黙視できずに、なんとかわが家に連れ戻そうとして、やるせない思いで人間に語りかけておられる言葉なのでしょう。なぜなら、偶像礼拝はサタン礼拝であり、その終りはサタンと運命を共にするほかないことを、神は知っておられるからです。
それゆえにエレミヤは、ついに黙しえず、次のような神の警告の言葉をも、併せて告げているのです。

「あなたがたは彼らに、こう言わなければならない、『天地を造らなかった神々は地の上、天の下から滅び去る』(エレミヤ書10:11)

こんな話があります。むかしある老人が、死ぬ前に神の存在を確認する必要を感じ、山中に入って神を探し求めていた。
彼はまず洞窟に入って火をともしたが、暗闇の中でちょろちょろ燃えている火を見つめていると、なんともいえぬ神秘的な感じに打たれ、思わず手を合わせて、この火を神として拝んでいた。

ところが、夜が深まると、空に美しい星がキラキラ瞬きはじめた。これを見た老人は星のほうが火よりも有り難いものに思えたので、「同じ拝むんなら、こちらを拝むのが本当かもしれない」と、こんどは星を神にして拝んでいた。
しばらくすると、月が出てきた。みると、星よりももっと大きく、しかも明るい。そこで老人は、この月のほうが星よりもっと偉大な存在のように思われたので、星を拝むのをやめ、月に向かって手を合わせて拝んでいた。
だが翌朝になると、東の空が白みはじめ、やがて太陽が昇ってきた。太陽は月よりもさらに大きく、しかもはるかに明るい。これを見た老人は、どうやらこちらを神とするほうが本当かもしれないと、こんどは太陽を拝んでいた。
ところが、夕方になると、この太陽が西に沈んで見えなくなり、再び暗闇に包まれてしまった。そこで老人は、こんなに出たり入ったり、現れたり隠れたりするんじゃ、どうもあまり頼りにはならない。いったいどうしたものか、と思案に暮れたあげく、あることに気がついた。

「そうだ、この世には、火を作り、星を作り、月を作り、太陽を作り、これらを支配している方がおられるはずだ。その方こそが、本当の神様にちがいない」と悟り、目に見えるものを神とすることをやめ、目に見えない天の神に向かって、真の礼拝をするようになった、という話しです。

これは、単なる寓話にすぎないとはいえ、ここで語られていることは確かに、神の存在についての真理であるといわねばなりません。

この創造主を神とする信仰こそは、人類普遍の理に適った真の信仰というべきでしょう。ゆえに、元東京大学総長・矢内原忠雄氏はこう言っています。

「キリスト者は神を信ずる。いかなる神を信ずるか。天地万物の創造主たる神を信ずる。マルクス主義の宗教本質観は…要するに神が人間を造ったのではなく人間が神を造ったとの説である。キリスト教は、人が神を造ったのではなく神が人間を造ったのだと主張する。キリスト教はまた主観主義を極力排斥する。神は人類以前より有りて有る者であり、人間が認めようが認めまいが、キリストの実在は客観的実在である。人が神を造りたるにあらず神が人間を造ったのである。神が宇宙万物を創造し世界の諸国民諸民族を創造し、個々の人間を創造されかつ宇宙と歴史の動きを見ておられ導いておられる。個人個人の生きがいをも神のみ旨の中にあるということを信ずることによって初めて、私どもは心のよりどころを見出だすことができるのである」。

神を信じないならどうなるか

この神の存在を認めるかどうか、これはまったく人間の自由です。なぜなら、他から強いられたものは、それはもはや信仰とはいえなくなってしまうからです。
信仰というものは、どこまでも本人の意思によって選び取るものでなければならないのです。したがって、他人が強制できるものではなく、またすべきものでもないのです。
しかし、信仰はたしかに自由ですが、だからといってどうでもいいというものでは決してありません。われわれがもし神の存在を認めないなら、どういうことになるでしょうか。

1、まず第一に、人生の意義目的がわからなくなってしまいます。
すなわち、自分がどこから出てきたのか、どこへどうなっていくのか、そして何よりも、いまなんのために生きているのかさえ、わからなくなってしまうでありましょう。
その結果、盲目的人生観に陥り、無目的の生き方をするほかはなくなってしまうでしょう。

2、道徳的価値というものが認められなくなってしまいます。
なかには、神があろうとなかろうと、それとは無関係に道徳的価値観というものは存在し得るといわれる方があるかも知れません。しかし、はたしてそうでしょうか。
世界的に著名な神学者エミール・ブルンナー博士は、こう言っています。

「神が存在しないなら、良心は私たちにとって何の意味もない古くさい習慣にすぎない。もし神が存在しなければ、我らは正しくあるために骨折ることはやめてしまうがよい」。
元東大総長矢内原忠雄氏も、おなじようなことを言っています。

「私どもは、神が宇宙と人類を支配しておられること、それ故に神の正義は必ず通ることを信じます。…もしも神を信ずることができなければ、神がないと仮定するならば、世の中は混乱と矛盾でありまして…何が善であり、何が悪であるか分からなくなってしまうでありましょう。…実際に、われわれの住んでいる社会は、混乱と矛盾にみちているのでありまして、もし神を信じる信仰がなければ、私どもはあるいは恨み、あるいは憎しみ、あるいはわがまま勝手放題のことをやって、他人を殺すか、自分で自殺するか、その殺人と自殺の両極端の中間をごまかしながら、うやむやに暮らしていくことになるのです」。

善と悪を区別する絶対の基準はどこにあるのか。それは、聖なる神にあるのです。神を抜きにした道徳は相対的なものにすぎず、それは自己目的を動機とする利害打算以外のなにものでもないでありましょう。
このように、もし神が存在しないなら、道徳それじたいが無意味になってしまうのです。

3、人間は、精神的・霊的孤児になってしまいます。
もし神が存在しないなら、われわれは人生の海原に漂う木の葉のような存在になってしまうのではないでしょうか。あるいはまた、砂漠を独り旅するような絶対孤独の生き方をするほかなくなるのではないでしょうか。
すなわち、われわれ人間を創造し、これに命を与えて生かしていてくださる方を忘れ、この方を見失うことによって、精神的・霊的に孤児になってしまうわけです。そのような生き方に、いったいだれが耐えることができるでしょうか。トルストイは言っています。
「神とは、人間がそれなくしては生きられない者のことである」。

では、どうしたら神を知ることができるのでしょうか。パスカルはこう言っています。
「神を知っている人間には二種類ある。利口でも馬鹿でもそんなことはかまわないが、とにかく謙虚な気持ちをもつ人たちと、それから真に聡明な人たち、この両者が神を知るのである。ただ傲慢で、中途半端な理性しかもたない人たちは神を知らないのである」。
預言者エレミヤはこう告げています。

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる」(エレミヤ書29:13)

神への信仰はすべての人の本分

「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ、これはすべての人の本分である」(伝道の書12:13)

「さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう」(詩篇95:6)

「御使が…大声で言った。『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』(黙示録14:6,7)

これは、創造主なる神礼拝への招きのメッセージです。この招きに応えることによって、はじめてわれわれは神との関係が修復され、正しい状態に回復されることになるのです。

要点の確認

  1. 宗教的信仰の対象は神である。ゆえにまず最初にはっきりさせなければならないのは、神の在在の有無である。しかし、神は超越的存在であるから、有限なる人間が無限なる神を証明しようとするのは、そのこと自体、論理的矛盾といわねばならない。とはいえ、証明はできないまでも、手がかりとなる根拠を示すことは、かならずしも不可能ではない。宇宙の森羅万象それ自体が、神の性質・知恵・力をあかしする何よりの証拠である。
  2. 世には種々様々の神々があるように見える。しかし、神とは絶対者のことである。神が絶対者なら、これと対立する者がほかにあってはならない。対立する者があるなら、その神は絶対者ではなくなる。絶対者でないなら、それはもはや神でもありえないことになってしまう。その意味で、神の存在は唯一でなければならない。このことを、まずしっかりと押さえることが、正しい神認識の大前提である。
  3. もし神が唯一だとしたら、世に存在する無慮無数の神々の中から、どうやってそれを識別し見分けるかが問題となる。それには、神観念を整理し、分類してみる必要がある。人々の神観念は、つぎの五つに分類できる。自然崇拝・諸物崇拝・植物崇拝・動物崇拝・霊魂崇拝である。しかし、これらはすべて人間以下の存在にすぎない。人間は万物の霊長といわれる。そのような人間が、自分より次元の低いものを神とする理由がどこにあろう。
  4. では、このほかに神はないのか。神がこれだけなら、人間は宗教も信仰も必要ないことになる。だが、聖書はもう一つの神の存在を示している。それは世界の創造主である。これ以外はすべて、この神によって造られ、存在せしめられている被造物にすぎない。これまで、世の多くの人は、この創造主を差し置いて、被造物を神にしてきた。これを偶像という。われらは、人の造った偶像を神とする無知と愚かさに気づき、これから離れなければならない。
  5. 世界苦・人間苦の一切は、人間が創造主なる神を見失い、この神から失われた者となっているためである。その結果として、人類は永遠の滅びの運命にあるのである。しかるに神は、われわれ人間が、創造主を神として認め、この神の礼拝者となるよう招いておられる。この招きに応えることによって、神と人間との関係が、本来のあるべき正常なすがたに回復される。しかも、その結果世界と人間の諸問題は、この神によって永遠に解決されることにもなるのである。何もかも行き詰まりの状態にあるこの世界には、これ以外に、当面する諸問題の真の解決も、人類の最大の希望である永遠平和の確立もありえないことを知らねばならない。

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