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第5課 人間の堕罪とその結果

はじめに

世界と人間の起源、これは偶然の産物ではなく、神の創造になるものであるというのなら、この世界に苦難・災害・不幸・悲嘆があるのはなぜなのか?これは千古の疑問です。
せっかく信仰を持ちたいと願いながら、容易に信仰に入れない人の多くが、この点に疑問を感じ、これがつまずきとなっているためのようです。
いったい、神の造ったこの世界が、どうしてこんなに不完全で、しかも悪に満ちているのか。世には多くの宗教があるわけですが、それはどのような説明をおこなっているのでしょうか。
残念ながら、これについては、神の言葉である聖書以外に、満足のいく説明はほとんど見当たらないといってよいようです。たとえば仏教は、苦の原因は欲であり、欲は迷いから生じるというのです。迷いとは無明のことであり、それは正しい知恵に欠けることにほかならないというのですが、こうした苦難の説明に心底納得のいく人が、はたしてどれだけいるでしょうか。

神の啓示である聖書の説明

では、聖書はこれについてどのように説明しているのでしょうか。使徒バウロは、ローマ人への手紙の中で、このように言っています。
「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6:23)
この罪という言葉の中には、すべての悪や不幸が包含されています。すなわち、人間の苦難や不幸の原因は、罪の結果であり、報いであるというのです。
いったい罪とは何でしょうか。旧約の預言者エレミヤはこう言っています。

『天よ、この事を知って驚け、おののけ、いたく恐れよ』と主は言われる。『それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで水を入れておくことのできないものだ』(エレミヤ書2:12,13)

人間の罪は二つの側面を持っています。その一つは、人間が創造主なる神に背き、命の源なる神から離れたこと。他の一つは、人間は自分を本位とし自己目的、自己追求の生き方をするようになったことです。
その具体的いきさつなり状態なりについて、預言者イザヤは神から幻を見せられ、次のように描写しています。

天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主がつぎのように語られたから、『わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない』。ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった。あなたがたは、どうして重ね重ねそむいて、なおも打たれようとするのか。その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷はかりだ。これを絞り出すものなく、包むものなく、油をもってやわらげるものもない(イザヤ書1:2-6)

これは、神に背いたイスラエルの民にたいする神の悲痛な訴えですが、じつはこのイスラエルというのは、われら人類の代表であり、縮図また雛形でもあります。すなわち、これが神に背き神から離反したわれわれ人間の、見るもあわれな姿なのです。

エデンの園の禁断の実が意味するもの

ではいったい、人間はいつどのようにして、神に背き、神から離れたというのでしょうか。
これを、われらに告げ知らせてくれるのが、創世記3章に記されている、あのエデンの園におけるアダムとエバの堕落の物語なのです。
いまそのあらすじを要約して記してみましょう。
「神は最初にアダムとエバをお造りになり、エデンの園を住まいとしてお与えになった。神は園の中央に、善悪を知る木をはえさせられたが、これを食べることを禁じられた。なぜなら、これを食べるときっと死ぬことになるからだというのである。
ところが、この園に蛇がいて、エバに声をかけた。『神はこの園の中にあるどの木からも食べるなとほんとうに言われたのか』と。そして、蛇は『これを食べても死ぬことはない。そればかりか、これを食べると神のように賢くなる』といって食べることを勧めた。そういわれてエバがあらためて果樹を仰いでみると、それは食べるによく、目に美しく、かつ賢くなるために好ましく思われた。そこで、エバはそれをとって食べ、夫にもすすめて食べさせた。その結果、二人の目が開け、裸のすがたに気づいて恥じらいを覚えたので、いちじくの葉で衣を作り、それを身にまとった。けれども神は、それを脱がせ、皮の衣を作って彼らに着せられた」。
大体以上のような筋書きの物語です。ところが、こんにち多くの人は、これをたんなる神話かおとぎ話のように考えて、人間の苦難や不幸の原因を説明する歴史的出来事とはとらないのが実情です。
しかしこれについて、いま二人の方の証言を聞いていただきたいと思います。

ひとりは世界的大伝道者ビリー・グラハム博士です。こう言っています。
「もし神が義と愛の神であるなら、なぜこんなに多くの悪・苦難・悲しみがあるのでしょうか。…どうして、神の被造物が欲情と邪悪とに満ちてしまったのでしょう。
それを理解するために、すなわち国と国とが相争い、家族が離反し、ありとあらゆる新聞に残虐と憎悪の狂気じみた暴力行為の記事が満載されている理由を知るために、われわれは、そもそもの最初に帰らなければなりません。すなわち、創世記の最初にあるエデンの園におけるアダムの物語に帰らなければなりません。
このよく知られる物語はただの神話にすぎない、という人がいます。それはとても返答できそうにない問題を、子供に説明して聞かせるような単純な説明方法であると彼らは言います。
しかしそうではありません。聖書は、最初に起こった出来事を、そして人間がそれ以来ずっと自分の滅亡の道に絶え間なく動いて行った理由を、ありのままに語っているのです」。

もうひとり元東京神学大学の学長・桑田秀延博士の証言です。
「然らば罪とは一体何か。なぜそれは人間にとって左様な根本的な問題なのか。この点に関して我々は、創世記三章のいわゆる『堕罪』の記事を注意して読んでみたい。
この記事はしばしば極めて荒唐無稽な無意味な神話のように考えられてきたが、どうしてどうして左様なものではない。
これは決して無意義な記事ではない。無意義どころか人間性の事実に関する深く生きた真理を、恐しいまでに鋭く、しかも生き生きと描いた深刻な記録であり、すべての人間に向ってその承認を迫ってくる力をもった記事である」。
では、この記事は何を意味し、どういうことを伝えているのでしょうか。ここに挙げたふたりのかたがたは、知性的には最高のレベルにある人々なのですから、どなたもそのつもりで、この物語が伝えようとしていることに耳を傾けていただきたいと思います。

失楽園を単なる神話とみるのはなぜか?

ところで、この物語を読まれるかたの多くが、これを神話と思ってしまうのはなぜなのか。顕著な理由は、次の二つかと思います。一つは、蛇が女に話しかけたという点。もう一つは、神がなぜ食べてはいけない木をエデンに生えさせられたのか、ということでしょう。

  1. まず第一の、蛇が女に話しかけたという点です。そんなことは、現実にはありえないことだと、だれもが思うに違いありません。
    しかし、これはじつは蛇の背後にサタンがおり、このサタンが蛇を媒介として女に話しかけているのです。このサタン、すなわち悪魔については第三課で学びましたように、彼は堕落天使の頭であり、この世に実在する神への敵対者です。
    このサタンはこんにちも、霊媒を使って人間に語りかけることを、よくおこないます。たとえば、青森県の恐山のイタコや沖縄のノロなどがそれです。もちろんこの場合の霊媒は人間です。しかし、神懸かっているあいだ霊媒自身は無意識ですから、人にはたらく霊のたんなる器にすぎず、その意味では動物と大差はないわけです。聖書には神がろばの口を通して、偽預言者バラムに語りかけられたという記事もあります。九官鳥でさえ人間の言葉をまねることができるのですから、サタンが蛇を霊媒として用い、アダムとエバに語りかけたとしても、なんら不思議なことではなく、ありえないことと考えるべきではありません。

  2. もう一つは、神がなぜ、それを食べることによって死ぬことになるような木を、エデンの園に生えさせられたのか、ということです。そんなものを置かなければ、アダムとエバは罪を犯すこともなかったはずではないか、というのです。
    いったい神はなぜ、エデンの園に善悪を知る木などを生えさせられたのか。また、これを食べたことがどうして罪になったのか、ということですが、じつは、これはアダムとエバの神にたいする服従をテストする、いわば試金石の意味を持つものであったのです。
    では、なぜそれが必要であったのか、その理由についてこれからできるだけ詳細に説明をさせていただきたいと思います。

善悪を知る木の意味

これを理解するためには、まずもって、人間が人間であるための必須条件として、つぎの五つの点をしっかりと押さえることが大切す。

一、神への依存

第一に心に留めていただきたいことは、人間の命と幸いは、われわれに固有のものではなく、創造主なる神から与えられるものである、ということです。
そもそも神と人間との関係は、創造者と被造物、生かす者と生かされる者との関係にあります。人間は神のかたちに象って造られましたが、これは前に説明しましたように、人間は神の映像であることを意味します。映像はそれ自体が独自に存在するものではなく、実体がまずあって、映像はその影として存在しているにすぎません。影は形に添ってのみ、存在が可能となるのです。
そのように、われわれ人間の命も幸いも、われわれに固有のものではなく、創造主なる神から与えられるものなのです。それゆえに、人間は神を離れては存在し得ず、命も幸いもありえない、ということです。人間の存在は神への依存による、これが第一の点です。

二、信頼と服従

第二に、人間の神への依存関係、これは何によって成り立つのかということです。それは、信頼と服従です。
すなわち、人間の命と幸いはすべて神から与えられるものですが、これを受けるための条件は何かといえば、それはいうまでもなく、神との結合です。
植物でいえば、たとえば木の枝の目的は、花を咲かせ、実を実らせることにあるわけですが、そのためには樹液が必要です。樹液の供給を受けるには、幹と根にしっかりと結合していなければならないわけです。
それと同じように、人間も、神から命と幸いを受けるためには、神との結合が不可欠です。あるいはまた、胎児の命と健康は、母親とのあいだが、へその緒でしっかりと繋がっていなければならない、神と人との関係もそれと同じ理屈なのです。
このように、われわれ人間が、神から命を与えられて生きて行くためには、神と結合していなければならないわけですが、その結合は信頼と服従によるのです。しかも、その信頼と服従は、無条件の絶対的なものでなければなりません。なぜなら、神と人間との関係は、母親と幼児の関係に似ています。

すなわち、幼児の安全と幸いは、母親への全的信頼と服従によってのみ保障がえられます。なぜなら、幼児は身の安全についての知識も経験も皆無だからです。たとえば、幼児はマッチに関心があり、それを手にしたがります。しかし、母親はそれを見たら泣くのも構わず取り上げます。なぜなら、幼児の火遊びをほうっておいたら、火傷をしたり、火事になったりする危険があるからです。また、幼児は包丁などにも興味があり、しきりに持ちたがります。母親はそれを見つけると、すばやく飛んでいって、奪い取ります。なぜなら、ほうっておいたら手を切ったり、大事な衣服を切り裂いたりする心配があるからです。
その場合、もし幼児が自分のなっとくできないことには従わないということになったら、どうでしょう。幼児の安全は保障されないことになります。
幼児の安全は、自分が納得できようができまいが、母親への信頼によって、母親のいうことには無条件で従うことです。それなくして安全は保障されません。
神と人間との関係も、これとまったく同じです。知恵も知識も有限である人間の安全は、全知全能の神を信頼し、全的に服従することが大切です。人間は神への結合によって、命と幸いが保証されるのですが、その結合は神への全幅的信頼と無条件の服従によるのです。

三、自由意思

神は人間に自由意思をお与えになりました。これが第三のポイントです。
われわれ人間が、神から命と幸を受けるための条件は、信頼と服従ですが、しかしそれは、強制ではなく、自由意思によって自ら選択した服従でなければなりません。
人間が神のかたちに象って造られたということは、人間がみずからの行動を、自由に選択し決定できる権利を与えられている、ということなのです。
ある人は、人間が罪を犯したのは、神から与えられた自由意思によるというが、それなら人間の罪の責任は、自由意思を与えた神にあるというべきではないか、といいます。そんなものを与えなければ、人間は罪を犯さないですんだはずだというのです。
では、神はなぜ人間に自由意思をお与えになったのでしょうか。それは、神が人間を神のかたちに似せて造るために不可欠のものであったからです。人間の人間たるゆえんは、道徳性にあります。これは人間以外の生き物には見られないものです。この道徳性こそが人間をして高貴な存在たらしめている必須条件なのです。
そして、この道徳性は自由意思がなければ成り立ち得ないものなのです。道徳性と自由意思は絶対不可分の関係にあるものなのです。強制された行動には自主性もなく、道徳的意味も価値も存在しません。自由意思によって選択し行動してこそ、その行動は道徳的に価値あるものとなるのです。人間は、そのような生き方をすることによって、はじめて創造の目的である神の栄光をあらわすことが可能になるのです。

四、選択の機会

神は、自由を与えた人間に、選択の機会をお与えになったということです。
自由には当然、選択の機会がなければなりません。選ぶものが一つしかなかったら、それは自由の行使にはなりえません。たとえば、ここに正直を誇る人がいるとします。しかし、もしその人に、不正直を行う可能性も機会もなかったらどうでしょう。その人の正直は、はたして真の正直といえるでしょうか。善を誇る人も同じです。
人祖アダムとエバが命と幸いを神から受けるための条件は、神への無条件の信頼と服従にありました。しかし、その信頼と服従は、彼が神から与えられている自由意志によって、選択することが求められていました。そして、それには当然選択の機会が与えられる必要もあります。そのために神の備えたもうた試金石が、禁断の木の実であったのです。
この禁断の木の実には、別に毒があったわけではなかったと思います。もし、毒があったのなら、それを食べなかったとしても、それは神への服従を選び取ったことにはならないわけです。なぜなら、それを食べると死ぬと分かって食べないのであれば、それは自分の功利的な判断と選択にすぎないことになるからです。
しかし、毒がないにもかかわらず食べなかったのは、食べることを禁じられた神にたいする信頼と服従によるのであり、しかもそれは、みずからの意志による選択の結果としての行動であることを示しています。
こうして、アダムとエバは、禁断の木の実を試金石として、神への服従の道を選び取ることによって、はじめて自由人として完成された人間となるはずであったのです。

五、選択を誤る

アダムとエバが、この大事な選択をするに当たって、誘惑者が現れました。蛇を霊媒にして二人に語りかけたのはサタンです。サタンというのは、神の敵対者という意味をもつ言葉です。
このサタンすなわち悪魔の目的は何かというと、神と人との間に割り込んで、人間を神から引き離し、自分の配下に引き入れることです。
そのための彼の狙い、また戦術はどのようなものであったのでしょう。それはまず、神と人との信頼関係を破壊することにありました。サタンは女に問いかけています。

「園の木の実を食べるなと、神はほんとうに言われたのか」。
これは、神の言葉にたいして、疑いをいだかせる言い方です。これにたいしてエバは、
「禁断の木の実は食べてはならない。これを食べると死ぬからと神は言われました」
と答えています。するとサタンは、たたみかけるようにして
「決して死ぬことはない。それどころか、これを食べるとあなたがたの目が開け、神のように賢くなる」
と言っていますが、これは神の言葉の否定です。この言葉に心を動かされたエバは、改めて禁断の木を仰ぎ見ました。するとどうでしょう。
「食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」ので、その実をとって食べ、夫にも勧めて食べさせた、とあります。
すなわち、サタンはエバに自由を曲解させようとしています。
「神は食べるなと言われたのか。それは神があなた方を束縛しようとしているのだ。しかしあなたがたは自由のはずだ。神といえども、あなたがたの自由を拘束する権利はない。あなた方は自由人らしく、したいことを思い通りにやったらいい」。
このサタンの言葉に惑わされたエバは、木の実を見上げたとき、
「神はどうしてこれを食べてはいけないといわれたのだろうか。食べて悪い理由などないではないか」と思い、サタンの勧めにしたがって木の実をたべたのです。
すなわち、サタンのささやきに耳を傾けたエバは、
神の言葉に疑いをいだき=その結果、サタンの言葉を信じた。
神の命に背いて=その結果、サタンの言葉に従った。

結局これは、二人が自由人としての生き方において、選択を誤ったということなのです。
こうして、神と人との関係がサタンによって破られてしまいました。その結果人間は、神の支配から離脱し、サタンの支配下に臣服することになったのです。爾来この世界は、神から完全に見捨てられたわけではありませんが、サタンがアダムに代わってこの世界を支配するものとなっているのです。

罪にたいする刑罰

以上のようないきさつによって、神に背いたアダムとエバに対し、刑罰が宣告されました。

A、女にたいする宣告は、次のとおりです。
「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)

B、男にたいする刑罰は、次のようなものでした。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:17-19)

これについては多くの説明を加えるまでもなく、どなたもみな、それぞれの人生経験の中に思い当たるふしがあるにちがいありません。そして、これ以外に、人間苦・世界苦の原因また理由について、納得のいく説明はどこにも見いだすことができないでありましょう。

苦難は危険の警告また救いへの愛の招き

それにしても、神がどうしてこのような刑罰を下されたのか、と疑問をいだかれるかたがないとはいえません。なかには、神はとてつもなく厳しく怖い方のように思われる人もあろうかと思います。
しかし、これはじつをいうと、神が愛のゆえにお与えになった刑罰なのです。というのは、もし神が罪を犯した人間になんの刑罰も与えないとしたら、宇宙の正義は成り立たなくなります。そればかりか、人間はけっきょく罪の結果、永遠に滅びてしまうほかはないでありましょう。

たとえば、ここに病魔に侵されつつある人がいるとします。この人がもし何の痛みも感じないなら、病気に気付かないか、気付いても医者に行こうとはしないでしょう。そのうち、病気が進行してついに命を失うことになるかもしれないのです。
しかし、痛みがあれば、その人はすぐ異常に気づき、どんなに忙しくても、我慢し切れず医者に診てもらうに違いありません。その結果、手術によって命を取り止めることになるわけです。
われわれ罪人も同様です。罪の結果としての苦難がないならば、人間は罪にも、罪の結果としての滅びにも気づかず、気づいても神の下に来ようとはせず、神が救いの手を差し延べてくださっても、それを受けようとはしないにちがいありません。
しかし、人生にさまざまな苦難や悲しみがあるために、人間は神にすがり、神の救いを求めるようにもなるのです。その意味で罪に対する刑罰としての不幸や苦難は、まさに神の愛とあわれみの警告にほかならず、それはまた救いへの招きの手段でもあるわけなのです。

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶ事ができました。あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです」(詩篇119:71)

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈りを聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し…すべてあなたがたを追いやった所から集め、…そのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる」(エレミヤ書29:11-14)

むすび

むすびとして、この失楽園にかんする矢内原忠雄氏(元東大総長)の解説の一部を、参考に引用させていただきます。
「アダムとエバが楽園を追われた記事は…無限の興味ある材料を提供しており、…未だその深き意味を究め尽くしたと言うを得ない。蓋し、この物語には人間が極めて普通に考える大小様々の疑問が巧みに織り込まれている。
試みにこれを列挙すれば、

  1. 人はなぜ良心の呵責を有つのか。
  2. 人はなぜ神の前から身を隠そうとするのか。
  3. 人はなぜ裸体に対して羞恥を感ずるのか。
  4. 人はなぜ衣服を着るのか。
  5. 蛇はなぜ地を匐うのか。(注・舌が二枚に分かれている。人の二枚舌との関係?)。
  6. 人はなぜ蛇を嫌うのか。
  7. 女はなぜ蛇に対して本能的なる恐怖を感ずるか。
  8. 女はなぜ男に服従するか。
  9. 女の出産にはなぜ苦痛が伴うか。
  10. 地からはなぜ茨や棘が生えて耕作を妨げるか。
  11. 労働にはなぜ苦痛が伴うか。
  12. 人はなぜ死ぬか。

要するに「人生にはなぜ悲しみと苦しみがあるか」というのが、この物語の中心問題であり、それに付随して人が日常生活に経験するいくつかの普遍的なる疑問が挙げられ、その説明が暗示されている。…吾人は蛇をサタンの象徴と解してこの記事の霊的意味を深く味わう事が出来るのである。…
創世記第3章は、この神と人との根本的関係について驚くべき正確なる規定を含蓄している。これこそこの記事が永続的価値を有つ所以であり、後世の神学者がキリストの福音の予示をこの記事の中に認むることもまた、あながち牽強附会とは言えないのである。…

楽園を逐われる以前において、人は苦痛と悲哀をしらず、良心の自責と羞恥を感ぜず、また不死であったと思われる。…人はかかる過去を顧みてそこに黄金時代の夢を描く。
しかしながら希望の神は、吾人をして徒らに過ぎ去りし楽園を懐かしむ者たらしめず、信仰により起ちてその輝かしき快復を来世に待ち望ましめたもう。
神はそのためにキリストを世に遣わして、救いの経綸を行ない給いつつあるのである。その経綸の成就するとき顕現すべき神の都は、エデンの園の及びもつかぬ光輝を放ち、神のパラダイスにある生命の樹の果は、エデンの園に生いしそれの比ではないであろう。
それは過去の楽園の復興ではなく、新しき神の都の創造である。(黙示録22:1,2)
この故に我らは失われし過去の幸福を回顧して懐かしむ消極的態度でなく、むしろ悲哀と苦痛と死を通過して、神の備え給う新しき都へと進み行く積極的態度を以て生きねばならないのである。
世界のことについて然り、人生について亦然りである」。
このように、矢内原氏は聖書の中に、人間苦・世界苦の真因を読みとり、信仰の目をもって鋭くそれを洞察しておられます。みなさまはどう思われますか?。

要点の確認

  1. 神がお造りになったこの世界に、どうして苦難があるのか?これはだれにとっても理解し難い千古の疑問である。これについては、どんな哲学や宗教も、明確な説明を与えてはくれない。神の言葉なる聖書のみが、この疑問に対する明快な回答をわれわれに与えてくれているのである。
  2. 神はわれわれ人間を、神の像に似せてお造りになった。ということは、人間は道徳的存在として造られたということであり、それはいいかえれば自由意志を持つ者として造られているということでもある。
  3. しかし、自由には当然、選択の機会がなければならない。禁断の木の実はそのための試金石となった。この試金石には、いったいどんな意味があるのか、またそれがなぜ必要であったのか?
    • A、神の被造物である人間は、命も幸いも神に依存する。
    • B、人間が命と幸いを神から受けるためには、神との結合が必須条件である。
    • C、人間を神の結合させるものは、神への全幅的信頼と服従である。
    • D、ただし、その服従は強制ではなく,自発的な選択によらねばならない。
    • E、禁断の木の実は、そのための試金石であったが、アダムとエバはその選択を誤った。

  4. アダムとエバにとって、命と幸いは神から与えられるものであり、それを受けるための条件は、神への信頼と服従であったのだが、二人は神から与えられていた自由意志を乱用し、誤った選択をした。すなわち、神の言葉を疑い、サタンの言葉を信頼し、その結果神の命に背き、サタンの勧めにしたがった。
  5. 以上が、神がお造りになったこの世界に、苦難や不幸が生じた根本の原因であり、理由である。これについての責任は神にはなく、選択を誤った人間自身にあるといわねばならない。
  6. この世の苦難や不幸は、人間の罪に対する刑罰にほかならない。ただし個人に臨む苦難が、必ずしもその人自身の罪に対する刑罰というわけではない。イエスはそうした考え方をきっぱりと否定された。
  7. しかも、苦難や不幸は刑罰の結果とはいえ、それはやがて遭遇するであろう永遠の滅びを告げ知らせる愛の警告であり、また、罪人を悔い改めに導き、神の備えたもう救いへの招きのみ声でもあるのである。

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