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第9課 キリストの地上生涯―その1、私生涯

はじめに

これまで人類の創造、罪の起原、救済の計画、救い主に関する預言などについて学んできました。救い主に関する預言は、それ自体神のお約束でもあります。
この神のお約束、これこそが罪によって神から失われたものとなっているわれわれ人間にとって、この世に生きて行くための唯一の希望にほかなりません。
これがなければ、われわれはこの世に生きて行く意味を、もはやどこにも見出すことはできないでありましょう。しかし、このような約束が与えられている以上、われわれはこの地上にどんなに苦難や不幸また悩みがあるとしても、なお人生には意味があり、したがってかがやかしい希望をもって生きていくことができるはずです。
では、われわれの救いに関する神のお約束が、果たして事実なのか、どうしてそれを事実として信じることができるのか、それは救い主に関する預言が、歴史上どのように成就しているかをみることによって、誰の目にもあきらかとなります。

キリストはだれか?

われわれ日本人の中に、イエス・キリストの名を知らない人は、ひとりもいないでしょう。しかしキリストはいったいだれなのかを知る人はほんのわずかで、よくご存じないかたがほとんどではないかと思われます。
日本でも、キリストはよく世界三大聖人の一人にあげられます。しかし、これは正しくありません。なぜなら、ほかの二人すなわち釈迦とマホメットは、たしかに偉大な宗教家にはちがいないでしょうが、しかし彼らはどこまでも人間なのです。それは、仏典またコーランにそのように記されているのです。
これに対して、キリストはたんなる人間ではありません。神が人となられたお方であるのです。聖書にこう記されています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であってめぐみとまこととに満ちていた。…神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネによる福音書1:1,14,18)

ここに、「言は神」とあります。この神なる言が肉体となったというのです。「肉体」これは人間のことです。そうすると、これは神が人間となったということであり、それがイエス・キリストであるというのです。キリストは神のひとり子とありますが、ひとり子とは人間の一人っ子とおなじ意味ではありません。「唯一」「これだけ」「ほかにない」といった意味のことばで、天の神をこの世にあらわす唯一人のお方、ということです。
イエス・キリストという名前は、とりもなおさず、天の神が人間の救いのためにお遣わしになったお方ということを意味しています。
ではこの方は、この地上でどのような生活をされたのでしょうか。

イエスの幼少時代

イエスの生涯を記す福音書は、公生涯についての記録がほとんどで、私生涯についてはほんのわずかの記録しかありません。しかもそれは、彼の少年時代にあったある出来事について記したものです。その概略を述べれば、次のようなものです。
これはイエスが一二歳のときにあった出来事です。ユダヤには、過越節という国家的民族的大祭典がありました。このときには、全国民がユダヤの都エルサレムに集まってお祭りに参加します。これはどういうお祭りかを、まず簡単にご説明しましょう。
この時から約1500年前、それまでエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民は、神のお遣わしになったモーセによってエジプトから救い出されたのでした。
しかし、エジプトの王パロは、最初容易にイスラエルを解放しようとはしませんでした。そこで神は、懲らしめのためにエジプトに10の災いを下されましたが、最後の災いは世にも恐ろしいものでした。
けれども神は、その災いから逃れる方法として、人々になすべきことをお示しになりました。それは小羊を殺して、その血を家の門の柱と鴨居に塗り、戸を閉じて外へ出ないように、というものでした。
イスラエルの民はみなそのようにしましたが、エジプトの人々は神を信じなかったので、この命令を無視し、だれもこの警告に従いませんでした。
ところがその晩、さばきの天使が神のもとから遣わされましたが、天使は戸口に血を塗ってある家の前を過ぎ越して、血を塗ってない家に押し入り、初子を撃って殺したのでした。このわざわいがくだったとき、さすが強情なパロも大いに恐れをなして、ついにイスラエルの民を解放したのでした。
イスラエルの民は、この神による大いなる救いを記念して、過越節というものを民族挙げての祭典とし、毎年これを盛大に守ってきたのでした。
ユダヤでは、男子が12歳になるとこの祭りに参加することが許されることになっていましたのでイエスもこのときはじめて、このお祭りに参加したのでした。
一週間のお祭りがおわり、人々は神の都エルサレムを後に家路につきました。ところが、イエスの両親は一日の旅路を終えてのちに、イエスの姿がみえないことに気づいたのです。驚いた両親は、旅の群れを離れてあちこち尋ね回りながら、三日もかかってエルサレムまで戻ってきてしまいました。そして神殿までやってくると、なんとそこにイエスがいるではありませんか。
イエスはそこで何をしていたのでしょう。律法学者たちの聖書の講義を聞いていたのです。
イエスはときどき質問をします。その質問の鋭さに学者たちは舌を巻いて驚き、この子は将来どんなにすぐれた教師になることかと、期待のまなざしでイエスを見つめていたのでした。
両親がイエスを見つけ、母親が彼を外に呼び出して申しました。
「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、お父様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」
するとイエスは、こう言われたというのです。
「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」
これはいったいどういうことなのでしょう。
聖書には「しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった」とあり、「母はこれらの事をみな心に留めていた」と聖書に記されています。(ルカによる福音書2:41-51)
イエスは、祭りの間神殿に犠牲として献げられる子羊と、その流される血は何を意味するのかを熟考され、これは人類の救いのために犠牲となって血を流す救い主を象徴的に示していることを、聖書に照らして確認されたのでした。そして、これはじつは予型であって、その本体・実体はこの自分にほかならない。この自分こそが、この予型象徴を成就し実現することになるのだということを察知し、自覚されたわけです。
少年イエスは、そのことを確認し認識させる意味もあって、律法学者たちにあのように突っ込んだ質問をされたものと思われます。
ところでイエスが両親にいわれた言葉、「わたしが父の家にいるはずのことをご存じなかったのですか」これはどういう意味か、ほぼ察しがついたことと思いますが、これを砕いて申しますとこういうことになるかと思います。
「わたしのほんとうの父はヨセフではない。天の神がわたしの真の父なのだ。わたしはこの父のみ旨である人類救済の計画を実現するためにこの世に遣わされたのである。あなたがたも、いまからそのことをしっかりと胸に刻み込んでおいてほしい」
お分かりでしょうか。この出来事はとりもなおさず、イエスが12歳のときすでに、自分は神の子であり救い主であるということを認識し、自覚しておられたということを示しているわけなのです。このときイエスは、十字架の死を霊眼をもって透視され、それをしっかと見据えて、不退転の決意でそれに立ち向かおうとされていたのです。
しかし、それには定められた時があり、その時の来るのをイエスはじっと待たれたのでした。そのあいだの消息について、聖書は次のように記しています。

「それからイエスは両親と一緒にナザレに下っていき、彼らにお仕えになった。…イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」(ルカによる福音書2:51,52)

イエスのバプテスマ

イエスは、この世の父ヨセフの下で大工の仕事を手伝っておられましたが、父ヨセフが世を去って後は、ご自分の腕で生計を立て家族を養われたようです。しかし、これもじつは、彼が救い主としてどうしても通らなければならない大切な人生経験であったのです。
イエスは30歳になられたとき家を出られ、ヨルダン川にやってきて、救い主の先駆者ヨハネからバプテスマを受けておられます。これはイエスが私生活から公生涯に移られるための転機となるものでした。

「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイによる福音書3:16,17)

この時の天からの声は、このイエスこそは、神の子であり救い主であるという父なる神の信任と保証の宣言であったのです。

荒野の試誘

イエスはバプテスマを受け、公生涯に移られるに先立って、荒野に入っていかれ、そこで40日の間断食をされ、サタンの誘惑と戦っておられます。これはなぜなのか?聖書には次のように記されています。

「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうためにあらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル人への手紙2:17,18)

イエスが荒野で受けられた誘惑は、われわれが人生を生きるに当たって、とくに神に従おうとするときに受ける誘惑を代表しているといえます。イエスはわれわれ人間の救い主となるためには、われわれの経験をすべて経験し、われわれの遭遇する誘惑にも勝利して、模範をお示しになる必要があったわけです。
しかも、イエスはただにわれわれと同じ経験をし、それに勝利するというだけでなく、さらに世の救い主なるがゆえの誘惑というものもあったわけです。そのためにイエスがお遭いになったさまざまな誘惑のうち、代表的なものが三つ記されています。

1、パンの誘惑

「そこで悪魔が言った、『もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい』イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。(ルカによる福音書4:3,4 マタイ福音書のほうには、このあとつづいて「神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」とある)

われわれがこの世に生きていくために必要なものはいろいろあるわけですが、だれもがまず最初に考えるのは食べることでしょう。
孔子は「衣食足りて礼節を知る」と言ったといわれますが、生きるためには何をおいてもまずパンを、とだれもが考えます。しかも、この点については、イエスも十分に理解を示しておられることがうかがわれます。すなわち「パンだけによらない」というこのことばは、反面においてパンの必要をはっきり認めておられることを示しています。
しかしイエスは、それと同時にまた、「パンだけでいいのか」と問いかけてもおられます。
人間は、肉体と精神とからなっています。では、この二つのうちどちらが人間存在のより本質的なものなのでしょうか。いうまでもなく、それは精神また人格でしょう。肉体は他の動物も持っていますが、人格あるいは霊性は人間だけに与えられているものだからです。そうすると、肉体にパンが必要であるように、人格・霊性にも糧が必要のはずです。しかもそれは、神から出る真理の言葉であるというのです。これがなければ、それは動物として生きているだけであって、人間として生きているとはいえないということになるわけです。
しかもわれわれ人間は、肉体として生きることと、人格・霊性において生きることと、どちらを優先させるかについて、たえず選択を迫られることになるのです。
これについてイエスは、まず神の言葉にしたがって生きるべきことを、身を持ってお示しになっておられるわけです。
イエスが荒野でお遭いになった誘惑は、われわれ人間の受ける誘惑を代表しているというだけではなく、救い主としての誘惑試練でもあったわけです。すなわち、イエスは神なのですから、奇跡によって石をパンに変えることは可能であり、容易です。
しかし、パンさえ与えれば、それで人類を救うことになるのでしょうか。人間を不幸にしているのは罪であり、人間を死に定めたものは神からの離反です。これを解決することなしに、いくらパンを与えても、それは罪と罪の結果である死からの救いにはならないはずです。ゆえに、もしイエスがサタンの言葉にしたがっていたら、救い主としての使命は完全に失敗におわることになったでありましょう。
しかしイエスは、サタンの甘言にたいし『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』という答えをもって、この誘惑にみごとに勝利しておられるのです。

2、世的成功と栄華の誘惑

「それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、『これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう』。イエスは答えて言われた、『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」(ルカによる福音書4:5-8)

サタンの第二の誘惑は、イエスにたいし、あなたがお望みなら、世界のすべての国々をあなたにあげますというものでした。彼のこの申出には、いちおう正当な根拠を持っていると言えます。なぜなら、サタンはアダムを神に背かせることによって、彼を自らの支配下に引き入れ、アダムが神から委ねられていたこの世の支配権を彼に代わって掌握しているのです。その意味では、イエスにたいするサタンの申出は、半ば正当性を持つものであることは否定できないでしょう。しかし、サタンの支配権は欺瞞と横領によるものです。
それを、イエスにたいしてお望みならこれを全部あげますよ、と誘いの言葉を述べていますが、いかにただで提供するといわれても、横領によって手に入れたものを受けることなどできるわけはありません。
この世の権威と栄華、これは人間だれしもがあこがれ、また願い求めてやまないものに違いありません。この要望が適えられるなら、人々は大いに満足することでしょう。
しかもこれは、救い主イエスにとって、願ってもない申出のように見えます。なぜなら、イエスの究極の目的は、アダムがサタンに奪われたこの世の支配権を取り戻し、イエス自らがこの世の王となって神権政治を確立することにあるからです。その支配権を、ほしいならあげるというのですから、いわば労せずして目的を達成できることになるわけで、こんな願ってもない話はないというべきでしょう。これは救い主イエスにとって、はげしい誘惑でなかったはずはありません。しかし、サタンの申出には、とんでもない条件が付いていました。それは「あなたがわたしの前にひざまずくなら」というものです。
たといイエスが、この世の王となって理想的な政治を行うことができたとしても、それはサタンの権威の下における政治である以上、真の意味において人類を救済することにはならないわけです。真の救済は、罪と罪の結果である死が解決されないかぎり達成され得ないのです。しかも罪と死の解決は、イエスがサタンに頭を下げることによってではなく、反対にイエスがサタンの頭を砕くことによってのみ可能となるのです。
ですからイエスは「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と答えて、サタンの誘惑を退けられたのです。

3、神を試す誘惑

「それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、『もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。[神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう]とあり、また、[あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう]とも書いてあります』。イエスは答えて言われた、『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」(ルカによる福音書4:9-12)

サタンの三つ目の誘惑は、奇跡に関するものであり、神を試そうとする誘惑です。これはとくに、われわれが神を信じ従おうとするときに直面する誘惑なのです。すなわち、祈ってお金が儲かったり病気がなおったりしたら信じてもよい。しかし、願った通りにならないなら、信じても意味がないという、いわば御利益のあるなしで信仰するか否かの判断をしようとすることです。これは、神を信じるというよりは神をテストしようとすることであって、人間としてはまことに僣越きわまる態度といわねばなりません。
では、救い主イエスにとってこの誘惑は、どのようなものであったのでしょうか。サタンはイエスにたいして聖書を引用し、ここに神は信仰者をいつも天使によって守るとの約束がある。もしあなたが本当に神の子であるのなら、奇跡が起こるはずであり、それによってあなたが神であることが立証され、なかなかあなたを信じようとしない世人の多くも、その奇跡を見たら、みな簡単にあなたを信じるようになるはずではないか、というわけです。これもイエスにとって、かなり激しい誘惑であったにちがいありせん。なぜなら、イエスは神であり、奇跡を行うことはいと容易いことであったからです。
しかし、奇跡や御利益はたしかに人々をして容易に信じさせることができるかもしれませんが、それは人々の欲望を満足させるだけで、神そのものにたいする信仰とは無縁のものになってしまいます。これでは利己的動機や目的による奇跡や御利益にたいする信仰にすぎず、イエスの究極の目的である罪と死からの救いにはなりえません。
真の信仰は何よりもまず、神を主とすることにあります。神を試みようとすることは、人を主にし神を従とすることにほかならないわけで、こんな信仰は信仰の名に値しません。

荒野の試誘の目的

イエスが荒野でサタンから受けた誘惑は、人間だれもが常に遭遇し、また直面する誘惑ですが、イエスはまずわれわれ人間の代表としてこの誘惑に勝利されたというだけでなく、ご自身救い主なるがゆえの誘惑でもありました。
中には、イエスがもし神の子であったのなら、どうしてこんな誘惑にあわれたのであろうか。どうしてこんな誘惑を事前に避けようとしなかったのであろうか、と思われる方があるかもしれません。しかし、イエスが救い主となるためには、われわれ罪人の経験を同じように経験する必要があっただけではなく、イエスご自身この誘惑に遭遇して、しかもこれに勝利することが絶対に必要なことでありました。なぜなら、これは神の救いの計画の中に予定されていることで、どうしても避けて通ることのできないものであったからです。
というのは、これはアダムとエバのエデンの園におけるサタンの誘惑と、これにたいする敗北に深い関係があります。
これには神学的な説明が必要とされ、使徒パウロがローマ人への手紙5:12以下で詳しく論じています。しかし、ここでは要点を簡潔に説明するにとどめます。

「ひとりの人(アダム)によって、罪と死がこの世に入ってきた。こうして死が全人類に及んだ。そこで神は同じように、ひとりの人(キリスト)によって、義と命がすべての人に及ぶように定められた。すなわち、ひとりの人(アダム)の神への不従順のために、多くの人が罪人とされたと同じようにひとりの人(キリスト)の神への従順によって、多くの人が義人とされるのである」

よくこんな不満が聞かれます。先祖アダムの罪は、子孫であるわれわれには責任がないはずではないか。それなのに、どうして遠いむかしの一人の先祖の罪によって、後々の子孫であるわれわれ大勢の者が、罪の結果としての苦と死を報いとして受けねばならないのか。これはあまりにも理不尽ではないかというものです。
たしかにそうした感じは否めません。しかしながら、その反対にまた救いと命も、別の一人の人の義と犠牲によって、なんの功績も価値もないわれわれすべてに与えられるという。これもまた理不尽といえばいえなくもない。すなわち先の理不尽が、あとの理不尽によって帳消しにされる形になっているわけなのです。
これは、神の恩寵によるのですから、われわれとしては何も文句がいえないどころか、ただただ感謝してその救いを押し戴くのみ、ということになろうと思います。
では、どうしてこのようなことが可能になったのかということですが、それは荒野におけるキリストの試誘と、エデンの園におけるアダムの受けた誘惑とには深いつながりがあるのです。

アダムとエバは禁断の木の実によって三つの誘惑を受けています。すなわち、

イエスが荒野で受けた誘惑も、おなじ性質のものでした。すなわち、

イエスがアダムとおなじ誘惑を受けた理由は、イエスが第二のアダムとなって、第一のアダムが受けたと同じ誘惑を受け、アダムが負けた誘惑に勝利し、それによってアダムが失ったものを取り戻すことにありました。そして、これによって第二のアダム(キリスト)は第一のアダム(人類の先祖)と、これに連なる全人類の救いを可能にしたのでした。

「しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」(ローマ人への手紙5:20,21)

「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司となられたのである」(ヘブル人への手紙5:8,9)

要点の確認

  1. 神なるキリストは人となってこの世にお現れになった。キリストはまさしく人間であられたが同時に普通の人間ではなく、その本質は神であられた。
  1. キリストはなによりも、御自身の誕生の経緯や状態それ自体に、神なる証拠をはっきり示しておられる。
    それは、すでに預言されていたとおりの誕生と、処女降誕という奇跡的出生に、それがはっきり証拠立てられている。
  1. イエスは12歳のとき、過ぎ越しの祭りに参加するため上京された。この過越節は、1500年前イスラエルがエジプトから救い出されたとき、それを記念するため制定されたものであるが、これはキリストの十字架を象徴し預言するものであった。
    少年イエスは、神殿で殺され、犠牲として捧げられる子羊を見て、これはまさに御自身の象徴であり、十字架の死の予型であることをみてとられ、この神の定めにしたがっていかれることを、心密かに決意された。すなわち、イエスは12歳のときにすでに、ご自分が神であり救い主であることを意識し自覚されておられたのである。
  1. イエスは30歳のとき、家を出られ、ヨルダン川にやってきて、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた。そのとき、天から父なる神の声があり、このキリストは神の子であり、神から遣わされた救い主であるとの確証が与えられた。
  1. イエスはバプテスマを受けられて後ただちに荒野に入っていかれ、40日にわたって断食をされた。その間悪魔のはげしい誘惑に遭われた。
    それは地上の生活に必要なパンの誘惑と、この世の栄耀栄華にたいする誘惑、それに神を試そうとする誘惑の三つの試みであった。これにはいろいろな意味と目的があった。

以上によってイエスは、救い主としての使命と任務を遂行するための準備は完了した。それと同時に、イエスは救い主としてのはたらきを、公然と開始された。

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